魔導研究所の最奥にある扉の向こうには帝国の秘宝があると、耳にしたのはいつのことだったろうか。もちろん一卒の研究員にすぎない私が扉の奥に入ることができるはずもなく、ただ秘宝の存在だけを心の隅で気に掛けながら毎日の研究をなんとかこなす日々だった。そのころの魔導研究所はまだできたばかりで、たいした研究ができるわけでもなく、ただ数だけ多い研究員の中でどう頭角を現そうかと試行錯誤していた。特に出世をしたかったというわけではなく、──いや、扉の奥を覗きうる権力を求めていたのだからやはり階段を登りつめたいという希望があったのだろうが、当時の私はそこまではっきりとした目的を持つわけではなくただ一群の群れの中から出たいという欲求とともに日々を過ごしていた。他の研究員と親交を持つわけでなく、もちろん魔導研究所の所長であるシド博士と言葉を交わす機会もなく、どちらかといえば研究所のなかであまたの研究員たちに溶け込み切れずに毎日試験管の中身を見つめていた。
帝国の秘宝とはなんなのか。時折耳にする噂では宝石だとも書物だともいわれていたが、真偽を確かめる術すら持たない私には遠い世界の話だった。
そのころの帝国といえばまだ軍事がすべての時代であり、ようやく南方大陸の制圧が完了したところで、軍事大国として台頭するかしないかといった時分だったろうか。シド博士は別格としても、まだまだ魔導研究所の研究員は道で軍人とすれ違えば道を譲らなければならないような立場でしかなかった。たかだか軍人風情に頭を下げねばならないことが腹立たしく、一向に研究の成果が出ない日々ももどかしく、とにかく何事につけても私の神経を苛立たせるようなことばかりだったことを覚えている。
そうしながらひと月がたち、ふた月がたち、試験管の中身がこの世のものではなく、帝国の新たな力となり得るものであるという認識が広まり始めたころ、私は上司から呼び出された。
会議室への道のりの中で、こそこそと話す声が聞こえたような気がしたが、あえて私はそれを耳にしないようにしていた。どうせ陰口に違いないのだからと、そう思いこんでいたせいで周囲の噂話を耳にしそびれてしまっていた。
──……、なんだってよ。
──げ、まじかよ!俺らじゃなくてよかったな。
──あの変人と違って俺たちは家族も友達もいるしな。
──まあ、あいつがどうなろうと知ったこっちゃないけど。
私はちらりと彼らを振り返った。内容が耳に入ったわけでなく、ただなんとなく無意識のうちに。一人と目が合い、それを合図にしたかのように彼らは各自の持ち場へと散っていった。そんな彼らの姿に、私はまたひとつ嫌悪感を増やした。
仕事でなにか成果を残すでもなく、ただ漫然と日々を送る彼ら。日常生活への文句は立派に口にしながら、それを正すためになんらかの行動をとるわけでもない。私自身はそんな彼らとは違うと、常々そう考えていたのがまた一つ積み重なっただけだった。
前を歩いていた上司はただひたすら研究所の奥へと進んでいく。このままいけばあの扉の奥へも入れるのではないかといった淡い期待は打ち砕かれ、そのひとつふたつ手前の部屋の前で上司は立ち止った。
上司といってもさほど年が違うわけでもなく、彼をその職位たらしめていたのは家柄だったのだろうか。年齢が十も離れていないということでなにか思うことがあったかは知らないが、一度だけ私の顔を見てから彼は扉をノックした。
ひとつ、ふたつ、みっつ。ゆっくりと扉を叩いて彼はその返答を待った。妙に動作が落ち着いていることになんら不信感を抱くわけではなく、ノックの数がふたつなら手水の合図だからみっつで正解だな、とのんびりしたことを考えていた。
少し待ってから室内から返答があり、上司が前に立って入室した。驚くべきことに、室内にいたのは魔導研究所の所長であるシド博士であった。滅多に研究員の前に姿を現すことはなく、研究所開設時から席を置く身ですらその姿を見かけたことは数えるほどしかなかった。印象的な黄色のフードは記憶にある限りいつも同じで、そのフードがあったからこそ博士を博士と認識できていたといっても過言ではない。思い返せば風貌に強い印象を抱かせておいて、日常的には普通の身なりであたりを歩いていたのかもしれないが、それがそうだったといって特に気にすることでもなかった。博士が歩いていたからといって画期的な研究ができるわけでもなく、新しい結果が生まれるわけでもなく、私にとっては研究が成果となるほうが重要だった。
「──ケフカ・パラッツォだね」
広くもない室内は天井までの本棚に囲まれており、それでもなお入りきらない書物が床の上に積み上がっていた。本棚の一つの前で本を手に取っていたらしいシド博士は本を手にしたまま私の顔を見、そうして頷く。
「きみはもういい、仕事に戻りなさい」
短い返事を残し、上司は退室していった。一人取り残された私はどうすることもできず、ただ本棚にある書物の名前を目で追っていた。
「気になる本はあるかね」
圧倒的に量の多い本の中からすぐに気になる本が見つかるはずがないが、シド博士の問いに私は頷いた。
「研究所の図書室にある本とはまた趣が異なりますね」
シド博士の表情が少し変化した。
「おや、題名だけでわかるのかい」
「なんとなくですが」
「こういった本を、いや、図書室の本ではない本を読めるようになりたいとは思わないか」
なにを言っているのかがわからず、私は本棚からシド博士へと視線を移した。
「研究所といえども、まだまだ一般の研究員には明らかにできないことが山ほどある。ここにある本も研究員には見せられない。そういった、本や知識や……帝国の深部を覗いてみたいとは思わないかね」
部屋の窓は本の日焼けを防ぐためか今なお薄い遮光幕で覆われており、それを通してしか明かりは室内に差さない。それでもこれだけはっきりと文字が認識できるということは、よっぽど外は光にあふれているのだろう。そんな外界とは大きくかけ離れた世界が今、目の前で扉を開けて私を誘っている。この機会を逃せばあとはない、無意識のうちにそう感じていた。
「研究所の一員である以上、知り得る知識は得たいと常々考えています」
「そんなうわべだけの言葉で済む話ではないぞ」
教科書通りの返答は博士によって切り捨てられた。
「──なぜ、私なのですか」
名家の出身でなく、それどころかもらわれ子で当の本人ですら出身地の記憶を持たず、友人知人の数も少なく、そういった身寄りのなさか。思い当たる点はそれしかなかった。常日頃の研究に対する姿勢への評価であればこれ以上なく喜ばしいことではあったが、ただそれだけでこの場に呼び出されたとするには説得力に欠けている。
「打ち明けるに値する人物だと、そう報告を受けてね。もちろんきみを評価したものにはなにを打ち明けるかまでは伝えていないが。他人からの評価だけではどうしても信用ができず、私自身も何回かきみの日頃の取り組み姿勢を観察させてもらったよ」
そこで博士は一度言葉を切り、改めて私の顔を見据えた。
「決定打となったのは、きみのその視線だ。周囲を見下げているその内面を、隠そうとしているのだろうが時折視線に出てくることにきみは気づいていないだろうが。これはただの研究員として終わるものの視線ではない。もちろん、同じような考えを持っていたとしても運悪く埋もれてしまうこともあるだろうが、きみは運がいい。時期も、周囲の環境も、本当に運がいい。あとはきみの判断次第だ」
「博士しかご存じでないその知識を分けていただくにあたって、私が払う犠牲とはなんなのでしょうか。ここまで重大なことを打ち明けられ、そのうえ更なるものを与えていただくことに、なにも対価を払わずにいられるとはさすがに思えません」
冷静に言葉を吐き出しながら、その裏側で今日はもう一日分話をしたなどとのんきなことを考えていた。日頃他人と言葉を交わすことがないせいか、もう今の時点で普段の会話の時間を超えてしまったような気がした。
目の前に吊り下げられている餌は大きく、周囲の状況を窺おうにも餌が大きすぎて視界を遮っている、そんな気持ちだった。目がくらんで飛びつくことは簡単にできるのだろうが、飛び上がってその着地点に地面がないというのではお話にならない。
「──魔大戦を知っているかね」
問うわけでもなく、博士は口を開いた。
「まあ、この研究所に籍を置く以上知らないではすまされないが。ここにある本はその魔大戦に関するものが多い。もちろん図書室にも置いてはあるが、ここの本と図書室の本には決定的な内容の差がある。それがなにか判るかね」
見当もつかなかったため、私はその通り述べた。博士は書棚に手を伸ばし、一冊の大きな本を手に取る。相当に古い本であるらしく、本の背はほとんどが朽ち果て、本としての形を保っているのが不思議なほどだった。博士はその本を開き、私に見せた。
そこにあったのは文章でなく、一枚の絵だった。どう見ても人ではない、異形のものが数行の解説とともに描かれている。
「これは……」
「魔大戦を支えた一つの柱である、幻獣というものだよ。きみも名前くらいは耳にしたことがあるだろう。今この国は軍事力によって成り立っているが、それだけでは心もとないと皇帝は考えておられてね。今は抜きんでていても、他国が並び立つ可能性もなくはない。そこで目を付けたのが魔力だ。とはいっても魔大戦を支えた魔導士たちは魔導士狩りによって滅びているし、幻獣たちがそのへんを歩いているわけでもない。元凶ともいえる三闘神はそれぞれ自らを石化してしまっている。そこで私は幻獣に関する禁書を集めて、幻獣界と呼ばれる世界があることを突き詰めた」
博士は手にしていた本を閉じる。空気が動いたせいか、埃っぽい黴臭いにおいが鼻についた。
「そうして皇帝は奇跡的にも幻獣界へと辿りついた。そこで我々は興味深いものを手に入れてね」
話がだんだんと核心に近づいているせいか、私は背筋に薄ら寒いものを感じるようになっていた。それにしても、博士はとても重要な話をしてはいないか?自分の身を惜しむわけではないが、一方的に呼びつけられて機密事項を耳にしてしまったという理由で口を封じられることは勘弁被りたい。
「と同時に幻獣を数体手に入れることに成功した。今きみたちが研究しているのはその血液なんだよ。いかに安定的に魔力を取り出すか、ここへきてようやく方向性が見えてきたところだ」
今まで訳もわからず研究に取り組まされていたものの正体を知り、私は身震いした。日々の数字を積み上げるようなしょうもない実験ではあったが、まさか幻獣を相手にしていたとは。
「さて、伝えるべき事項はすべて伝えられたように思う。もちろん質問があるならばしてくれて構わないが」
「その、幻獣とは別の興味深いものとはなんなのですか」
博士は目を開く。かすかな反応ではあったが、見逃すほどのものでもなかった。
「魔導研究所の深部に、帝国の秘宝があると、そういった噂を耳にしたことはあるかね」
来た、と思った。ついに近づくときが来たと。今までの時間を無駄にしないためにも、ここで食らいつかねばならない。
私は静かに頷いた。
「具体的になにが、とまでは知りませんが、耳にしたことはあります」
「実は皇帝は幻獣界から帰られたときに、一人の赤子を連れて帰ってきたのだ。人間と、幻獣の合いの子だという。まだ一歳になるかならないかの赤子だが、それが帝国の秘宝の正体だよ。ある意味ですでに帝国は魔導の力を手にしているともいえなくはないな」
夢にまで見て焦がれたものの正体は、まったくもって予想外のものだった。予想外ではあるが、ここまで近づけた以上は実際に拝まなければなるまい。人間とはこうも貪欲になれるものだと、身をもって初めて知った。
身の内から沸き立つ思いに震える私へ、博士はさらに言葉を続ける。
「君が望むのであれば、その赤子の世話を任せるのもやぶさかではない。──ただし、この条件をきみが飲むということが前提ではあるが」
さらなる階段を示されてのぼらずにいられるような殊勝な性格はしていない。どんな条件であろうと、たとえそれが身を滅ぼすことになろうとも受けようと思った。それが本当に身を──実際には心を、だが──滅ぼすことになろうとは思わなかったけれども、結果を知ることができたとしても私はその階段をのぼることを選んでいただろう。
「魔力を安定的に取り出す方向性が見えたと伝えたね。皇帝はそれを実際に人へ注入せよとおっしゃっている。つまりは人工の魔導士を作ろうというのだ。そうして軍事力だけではなく、帝国を発展させることを望んでおられる。ただし、取り出す方向性が出ただけであって実際に人に注入したわけではない。実験台としての性格が強くなることは決して否定できない。成功すれば魔導士に、失敗すれば最悪死が待っている──払う犠牲がもしかしたらとてつもなく大きくなるような賭けだが、成功すれば一気に将軍とならぶ地位へ近づくことができる。どうだろうか、きみはこの賭けにのることができるだろうか」
やはり私の出自によって選ばれたものだったか、と合点がいった。
──それならば、乗ってやろう。
孤児である私が権力の階段をのぼりつめ、帝国の秘宝をも手に入れる。こんなにも愉快な話があるだろうか。失敗したらしたでいいではないか。どうせくだらない研究しかできない、軍人に莫迦にされるようなつまらない日々しか待っていないのだから。
考えるまでもなく、私の答えは決まっていた。
シド博士の顔を改めて見据え、私は口を開いた。
その日から後、魔導研究所でケフカ・パラッツォの姿を見るものはいなくなった。
彼らが彼の姿を再び目にするのは、数年後の軍組織再編成時、はるか上の段上にて皇帝やレオ将軍の脇に並んだときであったという。
そこには地味な研究員の姿はなく、あるのは別人のように装いも雰囲気も変わった大魔導士の姿だった。